僕にとっての父親
- zumin
- 2020年2月19日
- 読了時間: 4分
最初に言っておきます。
読まなくていいです。
いつもだろ?と聞こえそうですが。
それはまぁよ。
昨日、父親が手術をしました。
朝から母親を迎えに行き、2人で病院に向かいました。
坂巻先生には僕がやるはずだった講義を代わりにやっていただくことにして、とても迷惑をおかけしたこと、忘れていません。ありがとうございます。
病院に着いて父親と話すととても不安そうでした。こんな父親は初めて見ました。
僕は手術前の不安くらいにしか思っていませんでした。
そりゃあね。と。
予定では午後から10時間以上はかかると言われていたが、少し早く1130に父は手術室へ。
母親と2人で成功を祈るだけです。
少しして看護師の方のご好意で家族待機室で2人で待っていました。
テレビもない畳の部屋で親子2人少し横になって色々話しました。
自分の父親と同じ病気で。
と母が言いました。
父親が妙に自分の病気に詳しいこと、とても疑問でした。入院してから同じこと話すようになってきたのに。
祖父が他界したのは僕が10才になるかならないかのとき。すい臓がんだとしか聞いていなかったのであれ?と。
祖父は70才でした。
当時、祖父の病気を父はよく調べていたのだと思う。その時の父は今の僕より少し上くらい。
父は今72才。
同じような歳に同じ病気に。
なんという。。
僕はその時、初めて父の不安を知りました。
父は僕には
男が台所に立つな!
とか言ういわゆる昔の人。家事全般は姉と母の仕事。
その反発で一人暮らしを始めるわけだが。
昔から父親は僕を認めてはくれなかった。
僕はずっと認めて欲しくて父親が好きなことなどを必死でやってきた。
父親が好きなのは野球。
だったら野球をやろうと小学生のとき。
中学生の時はもうそんなことはなくなって、高校ではバンドと麻雀に没頭してした。楽しかった。
その頃はもう夜中に帰っても父親は何も言わなくなった。
なんでだろ?とか思ったりしたこともあったが。姉の時はめっちゃ怒ってたのにとか。
どうでもいいが、バンドは姉の影響です。
ベースもらったのも姉から。私はファッションやるからって。
じゃあ俺ベースやるかって。結局ボーカルメインやったけど。
離れた歳の姉の影響はとても大きかった。
大学へ行った時も変わらず父親とはそれほど話すこともなかったし、会っても、ねぇ。
ただ、父親を僕はずっと意識していたしいつか認められたいとは思っていたが、彼は僕に興味がないのかなとかもこの時は思ったりしたかな。
思い出すのは研究の世界に入りたい時に父親に土下座して博士課程への進学をお願いしたとき。
初めて父親の本心を聞いた。
「出来れば就職してほしい。」
マスター(修士)でいいだろうと。いうことだったんかな。両親共に大学へは行っていないからというのもあったかもしれないが。
その時の表情は忘れていない。
多分この人は俺を応援してくれていると思った。直感だが。
修士で勉強する楽しさに目覚め、博士に行きたかった俺は親を説得し進学することが出来た。
両親は俺を認めてくれていたのだなとわかった。
思ってみれば自分のやること(私生活以外ね。私生活は。。)に反対されたことはなかったかな。
両親はずっと俺を見ていてくれていた。
そこからかな。
反抗期が終わったのは。遅い?笑
母親を買い物に連れて行ったり、父親と福島へ帰ったり。そういうこと気にしなくなったのは。
そうして僕は就職し理科大から横浜へ。
2ヶ月に一回くらい実家に帰る程度。
その最中、妻(高校の同級生で高校の時の彼女)と結婚することになり。
これまで連れて行った女性はみんな歓迎されなかった(なんで?笑)が妻はとても歓迎されていた。
長えなw
僕は今回2回目。
父親は16年前にがんをしている。
あの時は卒業旅行をキャンセルしたな。
1人泣いた夜。
今回は、ジェットコースターのような流れに戸惑いながら。
祖父が亡くなったあの時。
あれって。
今の俺と同じくらいの歳やな。
こんな気持ち外に出したか?あの人。
俺は誰にもこの気持ち伝えられずとても苦しかった。
きっとこれからも勝てないがずっと尊敬する人、それが父親なんよ。
俺、多分この人には勝てない。けど、勝ちたい。
認めてもらいたいから。
長生きしてね。父。

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